古代のカレンダー

満月

一年間の行事を日を追って記したもの

その昔、古代バビロニアでは僧侶達が毎夜寺院の屋上に登って月や星を肉眼で観察していました。 観察をしているうちに月の満ち欠けが一定の周期で行われることを知った彼らは、太陰暦を作り出しました。 これがローマに受け継がれるとローマの僧侶達も月を観測するようになります。 新月がはじめて顔を見せた夜に笛を鳴らして市民に知らせ、その次の日を「月の最初の日」と定め商人は金銭の清算をすることになり、それをカレンダーと言ったのです。 カレンダーは本来「告知する」という意味でしたが、次第に「金銭出納簿」の意味に変化をしていきます。 さらに金銭だけではなく、いろいろな行事を書き記した帳簿を意味するようになり、やがて今のカレンダーの意味へと変化してきたのです。

日本への暦の伝来については、日本書紀に「553年に百済へ暦博士の来朝を求めた」とあります。 また602年に観勒が来朝して暦法を伝え、日本の学生に学習させたとの記録もあり、七曜は弘法大使の「宿曜経」によってもたらされたそうです。 現在の太陽暦であるグレゴリオ暦を使用するようになったのは1873年からです。 「こよみ」は当初、小冊子の形ををしたものが主流で、暦屋の団体である領暦商社、1883年からは伊勢の神宮司庁でしか発行を認められていませんでした。 明治の中頃から1枚刷りの引札略暦が流行し、1903年には日めくりカレンダーが大阪で製造されるようになりました。 日めくりは旧暦も併記されており台紙に広告が入ったものが主流で、商店や会社が大量に作り、配布されるようになりました。